小倉競馬場(こくらけいばじょう)
福岡県北九州市小倉南区北方にある、中央競馬を開催する競馬場である。
歴史
1907年(明治40年)に戸畑競馬場が作られ、戸畑競馬場は1919年(大正8年)に三萩野に移転、さらに三萩野競馬場は1930年(昭和5年)北方に再移転し現在に至る。
小倉では明治中期、陸軍用地を借りて草競馬が行われていたというが詳細は明らかではない。1906年(明治39年)、馬券が黙許され東京では池上競馬場が開設されて人気を集めていた。それに刺激を受けて大宰府の田中種光他15名が社団法人東洋競馬会を作り、また、競馬場施設会社として東洋馬匹改良会社を設立、福岡県遠賀郡戸畑町字名古屋崎に競馬場を建設した(戸畑競馬場)。東洋競馬会は第一回競馬を1908年(明治41年)7月25,26,28,29日に行う。当時の戸畑競馬場は交通が不便だったというが、それでも4日間で26510人と当時としては多くの観客をあつめた。一日あたり11レースを行い4日間の合計44レース。馬は内国産馬と豪州馬にわけてレースを行っている。出場馬数は160頭、当時の競走馬は連日出走することもあり延べでは362頭の出走である。第一回競馬は盛況で終るが、明治41年10月馬券発売は再禁止されてしまい、明治41年秋の第二回、明治42年の第三回、第四回開催では、馬券を売れない競馬は観客からそっぽをむかれ競馬場は閑散とする。
1910年(明治43年)、日本の競馬は政府の補助金で運営される補助金競馬時代に入り、政府の方針で東洋競馬会は解散、戸畑競馬場は新たに設立された社団法人小倉競馬倶楽部が引き継いで競馬を開催する。
1915年(大正4年) 第一次世界大戦の影響で日本は好景気になり北九州地方は工業化が進む。小倉競馬倶楽部は製鉄会社(旧・東洋製鉄)から戸畑競馬場の用地買収を望まれ、小倉競馬倶楽部は1918年(大正7年)これを70万円で売却、三萩野に35000坪の土地を買い移転した。三萩野競馬場の土地購入費用と設備費合わせ36万円あまりであった。三萩野競馬場建設中には小倉競馬倶楽部は一時代替として宮崎競馬場で競馬を行ったという。
1919年(大正8年)秋、三萩野競馬場は完成し、以後、春秋の2季競馬を開催した。しかし、馬券を発売できない競馬は振るわず、勝馬投票券(商品券)の試みも行う。1923年(大正12年)、関係者の長年の運動が実り、競馬法(旧競馬法)が成立し馬券の発売が許可される。馬券を再び売れるようになり、以後競馬は人気を集め発展していく。1929年(昭和4年)、福岡県は小倉競馬に独自の税をかけ、これに小倉競馬倶楽部は抵抗し混乱するが、1931年(昭和6年)には競馬法改正で競馬には地方税が賭けられることになった。1930年(昭和5年)には暴風で競馬場施設は甚大な被害を受けた。
1923年(大正12年)の競馬法制定で馬券を売れるようになってから競馬は発展していくが、拡大する競馬の規模に三萩野競馬場は手狭となっていた。そのためより広い土地をもとめ競馬場を移転することになった。
企救町北方(現・福岡県北九州市小倉南区北方)では陸軍部隊が久留米に移転したため跡地への工場誘致を考えていたが、ちょうど移転を計画した小倉競馬倶楽部と思惑が一致し、小倉競馬倶楽部は1坪3円という割安な価格で11万3千坪の土地を求め小倉の競馬は移転する。この北方に設けた競馬場が現在の小倉競馬場である。
1931年(昭和6年)春、新築なった競馬場は6日間の競馬を開催した。以後、開催規模・観客数を増やしていく。
1937年(昭和12年)には小倉競馬倶楽部は解散、競馬場は日本競馬会小倉競馬場となり、戦争による中断を経て、1947年(昭和22年)再開、1948年(昭和23年)国営競馬、1954年(昭和29年)には日本中央競馬会小倉競馬場となる。